2024年夏号 No.203 社長ハロー通信より

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更新日:2024/07/02

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田嶋崇之です

小田原を代表する著名人・富野由悠季監督の事

 唐突ですが私は1973年(昭和48年)生まれです。で、ちょうど小学校1年の1980年(昭和55年)頃に「ガンダムブーム」の波が小田原の子供たちの世界にもやってきて私も隣近所の子供たちもみんなドはまりしました。ガンダム自体は1979年に名古屋テレビで製作・放送され、当初は思惑通りの人気が出ず放送が途中で打ち切られましたが、その後、全国的な人気が広まり、1980年代前半には何度も再放送され人気に拍車がかかりました。

 そんなガンダムの原作者である富野由悠季氏は小田原の出身で、父上の仕事の関係で多古のあたりで生まれ育ちました。父上はゴム引きの防水布などを製造・開発する会社に勤められて戦時中に風船爆弾や高高度を飛行する際の与圧服の開発などをして、その影響が富野監督自身の宇宙への興味関心につながったようです。足柄小、白山中、相洋高校と進み、日大芸術学部で映画について学びアニメーションの世界へ進んで行きました。噂レベルの話ですが小田高に入れなかったのがコンプレックスだったとかで、とにかく負けず嫌いだったり良い意味でプライドが高かったりしたのだと思います。

 ガンダムの大ヒットで当時から小田原に呼んで講演会などをしてもらおう、みたいな話はあったらしいですが、小田原時代のコンプレックスからか小田原に近寄ることは無く、小田原嫌いの噂が立つほどでした。そんな富野監督も近年は母校で講演したり小田原のイベントに顔を出したりして頂けるような関係になって来ました。

 先日まで横浜で公開された動くガンダムの人気からも分かる通り、富野監督の影響力は世界的です。私は小田原出身の著名人の中で富野監督は北條早雲や二宮尊徳に並んで後世に語り継がれる偉人となり、今後100年くらいはこれらの方たちに並ぶ人は出てこないと思っています。だから富野監督の偉業をたたえるような記念館や実物大ガンダムを生まれ故郷の小田原に作って世界に発信出来たら小田原のまちづくりにも寄与すると思い、不動産の業界団体で例年行う小田原市への要望活動の項目に入れてもらいました。

 結果、私たちと同様に考えていた有志の方たちと共鳴して署名活動を始め、その影響もあり小田原市と富野監督との間で、若者活躍や観光、文化振興などを進め魅力的なまちづくりを推進することを目指した「包括連携協定」を締結することにつながりました。

 先日、小田原市長選挙が執行され、富野監督との「包括連携協定」に尽力した守屋氏が落選して元職の加藤氏が復職しました。それはそれなんですが、気になるのは現加藤市長が選挙戦中から守屋前市長の成果でもある富野監督と小田原市の関係性に対抗してなのか、小田原を含む足柄平野を「風の谷のナウシカ」の「風の谷」にしたいと発言している事です。「風の谷」の人々が互いに支え合いながら生きる様を自身の政策や信条に重ね合わせているようですが、富野監督と並んで日本が誇るアニメ界のレジェンドである宮崎駿監督を引っ張り出して来るのもなんだかなぁと思ってしまいます。かなり激しい選挙戦だったのは皆さんご存じの通りですが、富野監督と小田原市の良好な関係が選挙のネタに巻き込まれて吹っ飛んじゃうのだけは何としても避けたいところです。

私はアニメが好きなので、もちろん宮崎駿監督の作品も大好きですし加藤市長の意図もよく分かるのですが、そもそも「風の谷」でなくて「となりのトトロ」に描かれた日本の原風景や「ラピュタ」の炭鉱町で支え合って生きる人々を目指す方がまだマシな気がします。「風の谷」は周りが汚染された死の世界で、周りから孤立した世界で人々が支え合いながら生きる状況設定は「進撃の巨人」や「シン・エヴァンゲリオン」の「第3村」など人気作品でよくあります。その状況設定が作品のカギになったり深みを与えたりするのですが、自治体の首長が目指す都市像を「周りから孤立した世界」にしてしまうのは、作品の事をよく分かっていないのか、または相当に意図的なのかのどちらかで、薄っぺらいのか孤立したいのか、どちらなのかと勘繰ってしまいます。

まぁ、あまり深く考えての発言ではないと思うので加藤市長には富野監督の偉大さと、誰の手柄かなど気にしないで「包括連携協定」に基づいた事業の実現などを訴えていきたいと思います。