2020年3月号 会長ハロー通信より

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お元気ですか      

    田嶋昇です。

 

兄弟会

私は5人兄弟姉妹ですが、残念ながら次兄が15年位前に,長姉が2年前に亡くなってしまい、今は長兄(ヤオマサ会長)と妹と私の3人が残っています。

それぞれ伴侶が居たのですが、亡くなったり、施設に入って居たり、デイサービスにお世話になっていたりで、夫婦揃って何とか元気に生活出来ているのは我が家位になってしまいました。

末弟の私が80歳にもなり、みんな歳とってしまい、仕方ない事です。

兄弟姉妹皆地元にいたので、若い頃はこと改めて会わなくても、仕事や、行事、会合や、生活上なにかと接点があったのですが、歳を取るとそれが少なくなってしまい、お互いに「今、元気なのかな?お変わりないのかな?」と気になってしまいます。

そんな訳で、年に何回か兄弟姉妹(伴侶含)が全員レストラン等に集まって昼食を兼ねて手軽な「兄弟会」をおこなっています。

 

2月に中町の「釜くら」で、左端が私

 

私が子供の頃は、戦後の物資が無い時代でしたから、どこの家も貧乏で、しかも子供は多かった。5,6人はざらでした。

周りを見渡してみて同じようなものですから、生きていくために皆一生懸命に働いて来た様な気がします。

我が家は、大正時代、親父が子供の頃、大八車で野菜の引き売りから始めた八百屋です。戦後。親父は青果の卸業として毎朝一番電車で東京秋葉原の青果市場まで仕入れに行き、昼には仕入れた品物を小田原の青果市場で地元の八百屋さんに卸売りをしたりしていました。箱根や熱海の観光地の八百屋さんには頼りにされ、喜ばれたようです。「毎日の事ですから朝早くて大変だなあ!」と子供心に思い、親父を尊敬していました。

母親は誰にでも親切で、優しい人でした。お店は八百屋ですが、野菜果物をメインに、乾物や缶詰、味噌、醤油、食料品雑貨等何でも扱っていました。今はスーパーやコンビニが出来て、すたれてしまいましたが、昔はごくありふれた一般食料品店でした。母は小さな体でしたが、朝から夜まで文句や愚痴を言わずによく働いて、店を守りながら、私達5人の子供を育ててくれました。

兄二人と私は歳が二つ違いの兄弟でしたが、家が裕福では無かったので、兄二人は商業高校に入り、卒業するとそのまま家業に入り、親父と一緒に仕事をしました。

両親が朝から晩まで真っ黒になって働いているわけですから、私達兄弟は中学生になると毎朝学校に行く前に、牛乳配達を始めました。長兄が先ず始めたのですが、次兄、私と続きました。当時、子供でも家の仕事を手伝うのは当たり前の事でした。

長兄は当時から商売人の素質があったのか、牛乳配達しながら御用聞きをして、帰りには注文を取ってきて、母親にも、お客様にも喜ばれて、又可愛がられていました。

母は50歳前に、私が高校1年の夏に突然亡くなってしまったのですが、お客様からも誰からも「あんたのお母さんは親切だった!いい人だった!」と言われた記憶があります。

男三人兄弟の中で、末弟の私だけが大学に行かせてもらいました。当時兄達が望んでも、我が家には全員進学させる余裕は無かった様です。世間でも「勉強するより、早く仕事をしろ」という風潮でした。私も大学を卒業すると、他に就職をせず、家業の(有)八百政商店に入りました。

丁度、「流通革命」と言われて、セルフサービスのスーパーマーケットが出始めた頃でした。

親父は、長兄が22歳の時に、社長を譲りました。私達兄弟は長兄を中心にまとまり、他の従業員と一緒に、朝から晩まで良く働きました。社長は青果の卸部門はやめて、積極的に食品スーパーを拡大し、多店化をはかりました。私達兄弟姉妹も社長を中心に仕事を頑張り、現在の「スーパーヤオマサ」の礎をつくりました。それは私が42歳で不動産業に転進するまで続き、その後仕事が変っても兄弟姉妹それぞれの持ち場で、人生色々、懸命に生きてきました。色々な思い出もあって、たまにやる兄弟会は良いものです。